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最終更新日:2008/ 4/ 6(日) 17:32:14

学会報告「1920~30年代における日本の国際評論」

目次

  1. 基本情報
  2. 報告の概要
  3. 補足情報
  4. 関連リンク

基本情報

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報告の概要

(1)「国際評論」の出現

わが国において「外交評論」あるいは「国際評論」というジャンルが、言論の一領域としての地位を確立したのは、20世紀の初頭、明治の末から大正の半ばにかけてのことである。

この時期、朝日新聞をはじめとする大手の新聞社は、やうやくその組織を整へ、体系的な取材と報道のシステムを作り上げる一方、国際問題の報道(外報)にも大きな力を注ぐやうになつていつた。また『外交時報』や『国際知識』といつた、国際問題の分析や評論を専門とする雑誌が創刊されたのも、ちようどこの時期のことである。

(2)「国際問題評論家」米田実の登場

このやうな時代の流れのなかで、「国際問題評論家」と呼ばれる一群の人々が登場する。それまで、国際問題に関する評論といへば、一般の評論家が、必要に応じて断片的に言及する程度であつたのが、この頃になると、国際問題に対する評論を中心にすゑつつ、言論活動を展開する人々が増えてきたのである。

米田実(まいだ・みのる:1878-1948)は、まさにこのやうな「国際問題評論家」の一人であつた。1896年に、勝海舟の援助によつてアメリカ西海岸に渡航した彼は、オレゴン大学・アイオワ大学などで外交史・国際法に関する研究を続ける一方、アメリカ西海岸を代表する邦字紙『日米』の創刊メンバーとして、同紙の編輯長などを務めた。1907年に帰国したあとは、東京朝日新聞社に入社し、同社の初代外報部長となる。彼は大正期のほぼ全期間を通じて、同社の外報部門の最高責任者であり、同紙の国際報道に対して、大きな影響を与へつづけた。

(3)米田と彼を取り巻く人々

米田はその一方で、明治大学において教授を務め、さらに、『外交時報』『中央公論』など有力誌に、厖大な数の論稿を発表してゐる。その多くは、国際問題に関する評論であり、それらを通じて、当時の日本人の対外認識にも大きな影響を及ぼしたと考えられる。

さらに彼は、吉野作造、徳富蘇峰、本多熊太郎、松岡洋右といつた人々とも昵懇であり、1924年の排日移民法、あるいは1931年の満洲事変といつた、重要な外交問題に関しても、自らの見解を発表しつづけた。

発表では、この米田実の発表した論稿を中心に、当時の国際評論の実状について検討する。

  1. レジュメ(配布用) (PDF形式)
  2. レジュメ(発表原稿用) (PDF形式)

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補足情報

補足情報は特にありません。なにかお気づきの点がありましたら、ご一報いただけると幸です。

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