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最終更新日:2009/10/12(月) 14:31:44

学会報告「昭和10年代における米田実の国際認識」

目次

  1. 基本情報
  2. 報告の概要
  3. 補足情報
  4. 関連リンク

基本情報

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報告の概要

米田実は、明治末から昭和戦中期にかけて活躍した国際問題評論家であり、外交史学者・国際法学者でもあつた人物である。明治29年に17歳で渡米し、松岡洋右とともにオレゴン大学で学ぶ傍ら、邦字紙『日米』の編集長も務めた。帰国後、東京朝日新聞で外報部長や論説委員長を歴任しつつ、明治大学で外交史担当の専任教授となるなど、多方面で活躍を見せてゐる。国際問題に関し、40年間で通算1000編を超える論文や講演速記、新聞の解説記事などを発表してをり、その見解は、当時の日本人の対外認識にも大きな影響を及ぼしたものと想像される。

大正から昭和初期の米田は、英米両国の国力や国際的な地位を的確に把握した上で、両国を中心とする国際社会との協調を、日本の対外政策の指針にすべきと主張していた。この姿勢は、今回の報告の対象となる昭和10年代になつても、基本的に変つてゐない。たとへば昭和11年末の講演のなかで、彼は日独防共協定の締結が「日独伊」対「英仏ソ」という対立図式の形成につながりかねないとして、強い危惧を示してゐるのである。

日中戦争が始つてからも、米田は、独伊との提携に反対する立場を堅持し、また英米との対立は愚策であると信じ続けたやうである。しかし、言論統制の圧力が強まるなか、それを公的な場で直接的に表明することは難しくなつてゐた。米田は言動をより慎重にし、また時には部分的に譲歩することで、公の場での発言の機会を確保しつつ、自らの主張を国民に伝へるべく、さまざまな努力を重ねる。具体的には、国際情勢に関する正確な事実を提供し、諸外国が日本に対してどのやうな態度をとつてゐるかを報せることで、対英米戦争が「危険な賭け」であることを国民が自ら覚ることに、僅かな希望をつなぐことになつた。

本報告では、米田が苛酷な言論状況の下で、国民に対し、何をどのやうに訴えようとしたのかを、その対外観とともに明かにすることにしたい。

※上記は「報告要旨」として、事前に学会のウェブサイトに掲出されたものです(一部変更しました)。

  1. レジュメ(当日配布したもの) (PDF形式)
  2. 報告論文 (PDF形式)

※「報告論文」は未定稿ですので、直接引用はご遠慮下さい。

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補足情報

補足情報は特にありません。なにかお気づきの点がありましたら、ご一報いただけると幸です。

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