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最終更新日:2014/ 5/20(火) 18:10:49

論文「国際問題評論家の先駆・米田実」

目次

  1. 書誌情報
  2. 概要
  3. 正誤表・補足情報
  4. 入手・閲覧方法
  5. 全文データ
  6. 参考文献リスト
  7. 関連リンク

書誌情報

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概要

1.論文の要旨

米田実は、明治末から昭和戦中期にかけて活躍した国際問題評論家である。筆者は彼のことを、当時の日本人の対外認識に大きな影響を及ぼした人物と考へてゐるが、その経歴や人物、言説について、これまで研究の対象となることはほとんどなかつた。本稿では、これらの点について、当時の史料や遺族からの聴取り調査などによつて解明し、今後の研究の基礎とすることをめざしてゐる。

(1)経歴

米田は一八七八年、福岡県久留米市に生れた。一六歳で単身上京し、苦学してゐたところを勝海舟に見出される。一九歳のときに勝の援助をうけて渡米、オレゴン大学などで法学や政治学を学んだ。その一方で、サンフランシスコで発行されてゐた邦字新聞の編集にも携つた。日本に帰国したあと、東京朝日新聞に入社し、そこで外報部長や論説委員長などを務める。その傍ら、明治大学政治経済学部の教授として二〇年以上にわたつて外交史を講じ、さらに『中央公論』や『外交時報』などに、厖大な数の論稿を発表しつづけた。

(2)人物

米田の人物像を解明するため、筆者は関係者の回想録などを調査し、遺族からの聴取りも実施した。その結果、明かになつたのは、その多面的な人物像であつた。米田は、謹厳でありながら純朴な一面を持ち、多数の聴衆を相手にする講演を好んで引受ける反面、人並外れて神経質なところがあつた。たとへば彼は、一九二三年に東京朝日の編輯局長代理に任ぜられたが、その重責に耐へられず、わづか数日で辞任を申し出てゐる。生活習慣をみても、純和風の生活様式を守るなど保守的な部分を持ちながら、妻が社会に出て働くこと(妻のわかは、日本女子大学の教授であつた)や、娘たちが大学に進むことを容認するなど、すぐれて進歩的な部分も兼ね備へてゐた。さらに、類稀な健筆家でありながら、一方で自分の意見を他に強ひることに、きはめて慎重な人物でもあつた。

(3)言説

大正期に発表された、国際連盟に関する彼の言説を検討すると、そこには二つの特徴が見いだされる。第一は、紙幅の多くを、歴史的経緯などの事実関係の解説に割いてゐることである。すなはち米田は、これらの論稿において、関係する歴史的事実や条約の規定などを詳細に説明してゐるのである。そして第二の特徴は、米田が国際連盟に対して、穏健で漸進主義的な態度をとつたことである。具体的にいふと、彼は連盟を好意的に捉へながらも、過度に肯定的になることはなかつた。また連盟の将来については、段階的にその進歩発展を図るべきと訴へてゐた。そして、このやうな彼の言説は、その豊かな情報量と穏健な態度から、大正期の日本社会に広く受け容れられることになつたのだつた。

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2.論文の目次

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正誤表・補足情報

1.正誤情報

3頁11行目 オレゴン州立大学 オレゴン大学
3頁14行目 アイオワ州立大学 アイオワ大学
3頁16行目 カリフォルニア州立大学 カリフォルニア大学
4頁10行目 文三 文三
12頁7行目 考へねばならぬこと 考へねばならぬこと
13頁10行目 活動と言ふ外ない 活動と言ふ外ない
14頁4行目 雖も、 雖も、
23頁下段19行目 州立大学 各大学
24頁下段9行目 アイオワ州立大学およびカリフォルニア州立大学への アイオワ大学への
24頁下段10行目 アイオワ州立大学 アイオワ大学
24頁下段11行目 カリフォルニア州立大学 カリフォルニア大学
25頁下段18行目 なお鷲津...資料もある。 〈削除〉
29頁上段4行目 日号。 日号夕刊
29頁上段14行目
32頁上段1行目 「よねだ(た)と 「よねだ(た)

※他にお気づきの点がありましたら、ご一報いただけると幸です。

2.補足情報

米田の卒業・在籍した大学について (PDF形式)

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入手・閲覧方法

各地の図書館(大学図書館・公共図書館)で閲覧できます。下記のリンク先から検索してみてください。

全文データ

現在、著作権の所在を確認中です。当面、上記の図書館にて紙媒体の方をご利用下さい。

なほ、本論の抜刷を希望されるかたは、残部が僅かながら手元にありますので、ご連絡をいただければ郵送いたします。

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参考文献リスト

(現在作成中です)

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